以下は慶應義塾大学林紘一郎教授が、被告のために提出された意見書です。原告代理人からいただいたコピーをOCR作成したものですので、乱丁があるかもわかりませんので、そのつもりでご参照ください。 なお、プライバシー保護のため、同教授の住所は省略してあります。
平成9年(ワ)第73号損害賠償請求等事件についての意見書
私は現在上記のところに勤めるメディアの研究者でありますが、「地域情報化施策」にも興味を持ち、国土庁地方振興局過疎対策室からの委託調査「過疎地域等における情報関連施設の整備およびその活用を通じての支援方策に関する調査」のメンバーの一員として、在宅介護などを中心に先駆的な試みを続けている、兵庫県五色町を訪問調査する機会に恵まれました(1997年12月22日から23日まで)。
その際、町営の淡路五色ケーブルテレビにおいて、広告の取り扱いをめぐり訴訟が提起されていることを、見学先の同ケーブルテレビにおいて知らざれました。このケースは全国的にも稀な事例であり、個人的な関心は無くはなかったのですが、当時は「地域情報化」についてまとまった論文を書くことに追われていましたので、後述するアドバイスを伝えただけで、聞きおくだけに終わりました。
ところが、その後の裁判の進展とともに原告を支持する意見書が、渡辺武道氏から提出されたこと(以下「渡辺意見書」)を知りました。そこで町を通じて内容を見せていただいたところ、同じメディアの研究者として、とても同意できないものであることが判明しました。またあわせて同じ論者による研究論文を読みましたが、これまた著しく偏った見解ではないかと思いました。
私は五色町という地域にも、また訴訟の遠因になった残土の処理問題にも、個人的な利害関係は一切ありません。しかし、ケーブルテレビにおける広告の取り扱いが訴訟になったという、研究対象として滅多にない事例でありますので、この際私の見解をまとめて提出させていただきます。
この小論が、判決のご検討の上で、いささかでも参考になれば幸いです。
1。言論の自由との関連における論点の整理
メディアや言説にかかわる行為は、「言論の自由」という近代法がもっとも重きをおく基本的人権と関わりが強いため、すべて憲法上の問題だとの思い込みにつながりやすい。たとえば、電波(周波数)という相対的に稀少な資源の割り当ては、わが国のような美人投票方式(つまり審査員による決定)によるにせよ、最近の米国のような競売によるにせよ、割り当てを受けたものと機会を奪われたものの間に、著しい不公平をもたらしやすい。したがって免許を受けた放送事業者は、「番組編集準則」を定めたり「番組審議会」を設置したりして、放送を通じた言論の機会を公平に与えるよう努力しなければならない(これを「公平原則」,という、放送法第3条の2。)。
したがって、仮にその運用に適切を欠けば、憲法の趣旨に沿うよう改善または回復措置が取らるべきは当然である。しかし逆に、すべてを憲法上の言論の自由の問題だとすると、重要な論点を見落としてしまうことにもなりかねない。たとえば「有線テレビジョン放送法」は、その第17条第2項で放送法第3条の2の「公平原則」および第3条の3の「番組編集準則」を準用しているが、これはあくまで準用であって、同じ条文が記述されているわけではない。また、後者の公表手続きについて、放送法には省令の定めがあるが、有線テレビジョン放送法には省令の定めがない。その立法過程をみても、昭和29年以降有線テレビジョンがなんらの規制のないまま各地で進展し、昭和47年になってやっと立法化がなされた際(施行は翌年l月l日)、「有線テレビジョン放送施設者」と「同事業者」を明確に区分する体系を導入した(もっとも運用上は、最近まで施設者=事業者とされてきたが。林El998b]第6章)。これは許認可という強い規制をかける部分(施設=第2章)と、それを用いて事業を行う部分(業務=第3章)を切り分けることにより、規制の範囲を狭めようとするものであろう。また政治的には、従来自由に営業してきた事業者の間に根強かった「規制のない方がかえって言論の機会を増やすのではないか」との意見と、法案提出者である規制当局の受信者保護の意見との調和をとって、導入されたであろうことは十分推定される。このように言論の自由を担保する仕組みも、メディアの種類によって差があるのが当然である。テレビと新聞という二大マスメディアを比べればわかるように、一般的には、資源の稀少性が高いメディアについては「公平原則」による内容規制が適しているが、資源の稀少性が低いメディアについては、営業の自由などの経済的自由の保障が、かえって言論の自由を守ることになる。この点を明示的に述べたのは、わが国では小論(林[1998a]、とくに第5節、さらに議論を広く展開したものとして、拙著[1998b]第8章)だけかも知れないが、他の論者も暗黙のうちに認めていると思われる。なぜなら、そもそもなぜ放送の規制が必要かについて、資源稀少説の他に、メディアの影響力説、マスメディアの部分規制説などが唱えられているが(浜田[1997])、いずれも放送の特殊性に着目しているからである。米国では、資源の稀少性と内容規制を相関させる考え方は、主流と言って良いだろう(Pool
[l9831)。
したがって資源の稀少性が薄れれば、現在の「公平原則」も見直しになるのは当然である。衛星放送(通信衛星によるものを含む)による多チャンネル時代の到来が、その契機となるであろうことは、多くの論者の指摘するところである(長谷部[1992]、108ぺ一ジ)。現に1988年の放送法の改正では、「公平原則」の一要素である「調和原則」は、地上波のテレビとNHKの中波・FM放送に限って適用されることになった(放送法第3条の2第2項、第44条第3項)。また米国では「公平原則」(Fairness
Doctrine)そのものが、FCC(連邦通信委員会)の判断により1987年に廃棄されている。
同じように、放送全体を一括りにするのではなく、放送番組そのものと広告とでは扱いが異なるのは当然であり(長谷部[1992]22ぺ一ジ)、いわゆる公共放送(わが国ではNHK)と民間放送とでは、これまた扱いに差が生じよう(NHKについては、一般的な「公平原則」に加え、放送法第44条第l項がある。なお、社説放送の是非につき、長谷部[19921]
166ページ)。一般的には、前者の方が「公平原則」に馴染むが、後者に近づくほど憲法上の言論の自由の問題が生ずる余地は少なくなる、と言えよう。
以上の考え方を本件に当てはめれば、事案に沿って手続き違反があったのか否かを、まず淡々と検討すべきであり、いたずらに言論の自由や憲法問題を持ち出すことは、かえって事態を見えにくくするのみならず、場合によってはイデオロギー的思い込みに負けてしまう恐れがあろう。
2。公法関係か私法・関係か
本件について議論が混乱する背景の一つに、ケーブルテレビが町営であり、かつ施設者と事業者が同一である点があろう。この運営形態は全国的には100例近くあるが、議論の過程で行政の長である町長(以下「町長A」)と、ケーブルテレビの運営責任者である町長(以下「町長C」)とが、明確に区別されないまま用いられ易い。そしてその延長線上で、本件広告契約が「公法契約」であるとか、本ケーブルテレビが「公の施設」であるとかの、誤解が生ずることになる。
しかし冷静に考えてみれば、.選挙により選出され住民のために行政サービスに従事する「町長A」と、ケーブルテレビの事業を行う「町長C」とは、同一人物であっても、機能がまったく異なることは自明であろう。本件で争われている広告契約は、「町長C」の立場でなされたものであり、その可否は私法上の契約として論じられなければならない。
本件の場合は、全国的に例の少ない「町営ケーブルテレビ」であるために、目が曇りがちであるが、地方公共団体の長が一方の当事者となる私法上の契約は、ごく普通のことである。被告準備書面に引用されているように、最高裁判所の判決も、既に昭和59年の東京都営住宅の使用関係について、私人間の家屋賃貸借契約と異なるものではない、と判示している(最判昭和59年12月13日)。またより即近の例でも、「国が行政の主体としてではなく私人と対等の立場に立って、私人との間で個々的に締結する私法上の契約は、当該契約がその成立の過程及ぴ内容において実質的にみて公権力の発動たる行為となんら変わりがないといえるような特段の事情のない限り、憲法の直接遇用を受けず、私人間の利害関係の公平な調整を目的とする私法の適用を受けるにすぎないものと解するのが相当である」(最判平成元年6月20日)と明確に述べている。
なお、ついでながら後述の「五色町情報センター広告放送取扱要綱」(以下「要綱」)第2条第15号のいう「町長」が、「町長A」ではなく「町長C」を意味していることは、「渡辺意見書」も暗黙のうちに認めているように思われる。なぜなら、行政の長が広告放送の適否を判断することは、いたずらに行政の介人を認めることになって、それこそ言論の自由にとって好ましいことではないからである。だとすれば、片方で本件判断が「町長C」によってなされたことを認めつつ、他方で本件契約が公法関係であるとか、ケーブルテレビが「公の施設」であるという主張は、矛盾したものと言わざるを得ない。
なお私個人としては、上記のような誤解を避けるためにも、運営上の独自性を明確にするためにも、ケーブルテレビを別法人化し、町長以外の者が運営責任を持つ方が好ましいと考えている。(また最近の行政指導では「施設者」は町であっても、「事業者」を分離することが可能であり、その例も若干ながらあるという)。このことは、最初に本件訴訟について聞き及んだ時から、一貫して持っている持論であり、私の唯一のアドバイスであるが、これはいわば立法論であり、解釈論としての本件訴訟に直接影響を与えるものではない。
3。広告放送中止の是非
さて本件訴訟の最大の論点は、「第1回五色,淡路未来フォーラム」に関する広告放送5回分をいったん受理し、1回だけ放送した後、中止した行為の運否である。
前述の「要綱」第2条によれば、放送をしない場合として15のケースが列挙されており、今回の中止の理由はその第15号「その他放送することが不通当と町長が認めるもの」に該当するものとして、被告から原告に通知されている。しかし中止の決定にあたっては、同第6号の「社会問題についての意見広告」や、同第12号の「あたかも町が推奨していると思われる表現のもの」という条項をも勘案し、総合的に判断されたものであると推量されるし、また被告も準備書面(2)でそのように述べている。
このような推量および主張は、当時の状況から十分な根拠があったものと考える。なぜなら、五色町への建設残土搬入の是非については、本事案が発生した平成9年の年頭から町中の話題となっており、かつ町民個々人はもとより町町内の地域のレベルでも、推進地域と反対地域というように、意見が分かれていたからである。いわば社会問題化していた訳である。
そのような中で行われた本件広告放送は、もちろん直接賛否を表明したものではないが、「黒い土と汚染問題を考える」というテーマの設定自体が否定的な表現であること。また連絡先とされている原告が、かねてから残土搬入反対派の人物であったことから、このまま放送すれば「町はこの問題については、広告主と同様消極的である」ことを伝える結果となりかねなかった。
そこで本事案のように住民の関心が高く、かつ賛否が分かれているものについては、関係者の論議を深ゆることが不可欠と考えた町長が(もちろん「町長C」として)、いずれか一方の立場に立っているとの印象を避けるため、広告放送を中止した行為は妥当であったと言うべきである。上記の「要綱」第2条に沿っていえば、社会問題化していた事案(第6号)について、「あたかも町が推奨していると思われる」ことを避けた(第12号)、として正当化しうるであろう。したがって、町長が行った広告放送中止の決定は、「要綱」第15号を限定的に解釈したとしても、その判断の過程に違法な点は見られない。
なお、原告の主張および「渡辺意見書」は、このような行為が直ちに放送法や有線テレビジョン放送法の趣旨に反し、憲法違反の疑いを生ずるものと論じているが、前1。および2。で述べたところから、そのような拡大解釈の余地はありえないし、法の解釈はそれぞれの法毎に厳密になされなければならないことは、言うまでもなかろう。
ついでながら、訴状請求原因第9項のホームステイ拒否と本件とがいかなる関係にあるのか、私は理解に苦しむものである。原告側の主張に乗れば、事案1が事案2と関係を有し、事案2はさらに事案3と関係が深いので、一一一一というような連鎖が生じ、法の安定性が著しく損なわれることが心配である。言論の自由のような、精神活動の発露そのものともいうべき営為については、厳密で自制的な法の解釈こそがその担保になることを、肝に銘ずべきであろう。
4。瀬戸内海放送事件の教訓
本件のような事案は、あまり前例が多くないが、甲第9号証中に紹介されているとおり、昨年類似のケースについての最高裁判所の判断が示されたので、以下に要点を記し教訓を汲んでみよう(最判平成9年l
0月14日)。
甲第9号証によれば、高松の自然食品販売会社である原告「ちろりん村」は、1988年から瀬戸内海放送でスポット・コマーシャルを打ってきたが、90年6月から「原発バイバイ」というコピーを含む新しいCMを放映することとした。これに対して被告の瀬戸内海放送は、いったんCMを受理し放映したものの、放送法の「公平原則」に反するのではないかとの疑義が出たので、局内考査会議で審議した結果、放映打ち切りを決定した。これに対して原告が、放映継続の仮処分、損害賠償請求の本訴などを起した。
最高裁の判断は、
(1)瀬戸内海放送は適切な局内審議のうえで打ち切っており、違法性はない。
(2)放映継続の仮処分の却下、地裁・高裁での審理と判決は適切で、違法性はない。
(3)民事訴訟法上も原審に問題はない。
という簡潔なものであった。
この事案と本件との間には、一つの類似点と一つの相違点がある。類似点とは、広く放送という範疇に属する産業において、広告放送の取り扱いについては、現時点では「公平原則」に則って可否を判断すべしとする点である。一般原則の面では、両者に共通点がある。
一方相違点とは、周波数という稀少性が高い資源を使わざるをえない(空中波による)放送と、有線テレビジョン放送とでは、同じ「公平原則」の適用においても、有意の差があってしかるべし、という点(すなわち1。で述べた点)である。この判決は前者のケースに関するものであり、資源の希少性が少ない後者については、事業者の判断はより自由であるべきと考えるべきだろう。
5。結論
以上に述べたことから、(1)本件中止行為は私法上の行為であり、(2)「要綱」に則った妥当なものであり、(3)憲法判断を要するものではない、ことが十分ご理解いただけるものと考える。
(参照書類)
訴状
答弁書
原告および被告の各準備書面
甲第4、9、16号証
乙第15考証
(参考文献)一一一拙稿[1998a]のみコピーを添付します。
拙稿[1998a]「マルチメディアとグローバル・スタンダードを考える一一一一ニフティ事件から再販問題まで」「メディア・コミュニケーション」慶応義塾大学メディア・コミュニケーション研究所
拙著[1998b l rネットワーキングー一一情報社会の経済学」NTT出版
浜田純一[1997]「放送と法」岩波講座・現代の法10「情報と法」岩波書店
長谷部恭男[1992]「テレビの憲法理論」私文堂
Poo1,Ithiel deSola [l983] ”Technology of Freedom”,Harvard University Press 堀部政男(監訳)[1988]「自由のためのテクノロジー」東京大学出版会