以下は同志社大学渡辺教授が神戸地方裁判所洲本支部に提出された意見書です。プライバシー保護のため、同教授の住所は省略してあります。
平成九年(ワ)第七三号損害賠償請求等事件についての意見書
神戸地方裁判所洲本支部御中
一九九八年六月一○日
(住所省略)
同志社大学教授(メディア論) 渡辺武達
はじめに
右事件は以下の文面による原告提供のCMを被告が放映を契約途中でうち切ったことによるものです。
『 記
第一回五色・淡路未来フォーラム
テーマ 黒い土と汚染問題を考える
会場 五色町民センター
日時 八月三一日(日)午後一時〜四時
連絡先 山口 薫 (電話○○ー○○○○)』
☆電話番号は省略
本件につき、以下の項目にしたがって意見を申し述べます。
一、CM放映中止の不当性、二、有線テレビジョン放送法とCM、三、放送CM契約は単純な「私法上の契約」ではないこと、四、有線テレビジョンと公共性・公益性、五、結論
一、CM放映中止の不当性
本件にかかわる五色町営有線テレビの事業認可は有線テレビジョン放送法(昭和四七年七月一日、法律一一四号)によるものである。
本法律の第一章総則は法制定の目的を「有線テレビジョン放送の受信者の利益を保護するとともに、有線テレビジョン放送の健全な発達をはかり、もって公共の福祉の増進に資すること」とし、有線放送テレビジョンについては「公衆によって直接受信されることを目的とする、有線ラジオ放送以外の有線テレビのこと」と定義(同第二条)、「事業の開始にあたっては郵政大臣からの許可を受けること」(同第三条)との条件づけをしている。また、同第十七条では「番組の編集等」を定め、「放送法第三条の規定は、有線テレビジョン放送の放送番組の編集について準用する」とし、日本で唯一の言論立法である放送法の番組内容規定への準拠を定めているから、本件の有線テレビの放送内容に関連しては放送法の規定を検討しなければいけないことになる。
さて、広告もまた、それが放送されるものの一部であるかぎり、放送法による番組分類の@報道A教育B教養C娯楽には直接にはあたらないとはいえ、法的には放送番組の一種といってまちがいはない。その証拠に日本民間放送連盟が放送法の規定によって制定している自主基準としての「日本民間放送連盟放送基準」には、第八四項から一四三項までにわたる詳細な広告基準が定められている。ということは、CMといえども、当然のことながら放送法における上述の番組編集基準を遵守することが当然であると考えられているということである。つまり、放送法三条の二の@にいう「政治的に公平であること」「意見が対立している問題についてはできるだけ多くの角度から論点を明らかにすること」という規定が本件CM内容においても適用されるということである。つまり、もしかりに、あるCMが政治性を帯びていても即それだけで放送に適切であるかとどうかを決めるものではないということである。そのことは、たとえば、地域公益事業としての電力会社による原子力発電のCMが、それが社会的争点になっているにもかかわらず、即中止にならず、日々一般地上波放送局から放映されているのを見れば明らかであろう。
くわえて、本件CMにある「集会の告知」はいわゆる「政治性」をもっているわけではない。後述するように、町民全体の福祉の向上、つまり公益性に貢献するものである。また、当該フォーラムの告知行為としての本件CMはその文言の社会的意味分析のどこからも放送法への抵触部分が出てこないのである。さらには、本件CMは放送法同条項にいう「公安や善良な風俗」をも侵していない。
以上のことから、本件のCMはその内容・形式ともに、上述の関係諸法・諸規定の条項のいずれにも抵触しないものだといえよう。よって今度の五色町(長)によるCM放映の中途差し止め行為は原告の「表現の自由」(憲法二十一条)を侵し、「検閲の禁止」(同条)に違反するものであることは明白である。
くわえて、本件CMが中止を通告された同時期にその他のCMが許可、放映されているにもかかわらず、原告のCMのみがいったん放映料(金五千円)をも受け取りながら中止通告の後打ち切りになったことは、町(長)が原告を差別的にあつかったことを意味している。よって本件におけるCMの放映中止は検閲を禁止した憲法二十一条および、「すべて国民は法の下に平等であり信条等によって差別されない」という憲法十四条の規定に明白に違反する。とりわけ本件事例に関連し、ロシアからの少年少女の原告宅へのホームステイを断ったことは憲法十四条や特別公務員法のみならず、原告およびその家族の民法上の権利侵害にあたり、同時に社会のどの局面・次元でも当たり前の、相互の「社会的信頼感」をふみにじった行為だといわざるをえない。
以下、これらのことについて、当該CMと直接の放映局である「淡路五色ケーブルテレビ放送番組基準」とのからみから検討をくわえる。
二、五色町営有線テレビジョン放送法とCM
現在の日本のNHKや民放各局は放送法の規定によってそれぞれに番組基準(民放は「放送基準」)といっている。例、前掲、「日本民間放送連盟放送基準」)を定めて公表しているように、この五色町営ケーブルテレビもその具体的な放送基準として「淡路五色ケーブルテレビ放送番組基準」を定め、それを基に放送行為をおこなっている(ことになっている)。
この基準の総則第六項には放送するものの一つとして「節度を守り、真実を伝える広告」とある。この文言はその他の関連法規と同様、それじたいとしてはたしかにあいまいな表現ではある。が、その部分は以下のような別項の規定との関連で理解すべきことは法解釈の常識であるから、その意味はおのずと明確になってくる。
「政治上の諸問題は、公正に取り扱う」(同第四章第一項)、「意見が対立している公共の問題については、できるだけ多くの視点から論点を明らかにし、公平に取り扱う」(同第四章第三項)
つまり、今度のフォーラムのCMは、第一、事実としての「黒い土と汚染問題」にいてみんなで考えようというものであり、第二、たとえ意見が対立することがあってもこの問題について話し合おうという呼びかけ行為、である。つまりこの集会開催は、「多くの視点から論点を明らかにすること」につながるものである。よって、このCMが「節度を守り、真実を伝える広告」という基準に抵触することにはならないことは明白である。
さらに、この基準には「現在、裁判にかかっている事件については、正しい法的措置を妨げるような取り扱いはしない」(同第四章第四項)ともあるが、当該フォーラム告知のCM放映の時点(放映は一九九七年八月二十六日、フォーラム開催は八月三十一日)では本件関連事項はいかなる角度からも裁判の場には持ち込まれてはいないから、この条項にも抵触しない。
さらに「営業広告及び売名的宣伝のおそれがある放送は、公共性から勘案し、慎重に取り扱う」(同第九章第一項)ともあるが、CMには掲載者責任が明白でなければならないことは一般放送の規定(民放連放送基準第八八条、等)にもあるから、問い合わせ先として原告の山口氏の名前と電話番号の記載がこれに抵触しないことは言をまたない。しかも規定の直後には「多数の視聴者(住民)にとって利益となる情報については、売名的宣伝とならないように十分注意して積極的に放送する」(同第九章第二項)とあるのだから、原告の山口氏が政治的に名前を売る必要性もその意図もなく、CMの文言にもそのような表現と受け取れる部分がない以上、この条項にも抵触しない。それどころかこの条項はむしろCM料金などとらなくても町営テレビは町民の福利厚生にかかわる問題について討議する「フォーラム開催の告知」を積極的におこない、より多くの町民の関心を高め、より多くの町民の集会になるよう、みずからのメディアによって広報することが、公共性に関連し、その設置目的に合致するかたちでの公益性を高めるものだといえよう。
ただし、この基準の第十二章は「委任」と題され、「この放送番組基準によるもののほか、必要な事項は、町長が別に定める」とある。が、この「町長権限」は上記の法精神で実務を遂行し、この条項には具体的に記述されていない新たな事象が生起したときには@他の関連法規を参考にした解釈、A時代時代の社会常識、B五色町発展と町民の暮らしの充実の方向で判断し、問題処理をする、Cその他に必要事項は別に細則を定め対処する、というのが妥当な法解釈である。
右記Cの関連と番組基準の細則ということで、このケーブルテレビ局は広告についての「五色町情報センター広告放送取扱要綱」(平成七年五月一日施行)を定めている。
それは「基本的には、次の各号に該当する場合は放送をしない」とし、「1 政治活動及び宗教活動に関係するもの、6 社会問題等についての意見広告、14 広告の意図及び内容が不明確なもの」などとつづくが、それらのいずれも今度のフォーラムのようなお知らせを「放送しない」もののなかには入れていない。
ここで検討すべきは、砂尾町長が、当該担当課長に電話で通告を行わせた後、原告の山口氏にたいし文書による通知をしたとき、当該CM放映中止の理由とした、この部分の最後にある「15 その他放送することが不適当と町長が認めるもの」という規定の意味・解釈である。さらにこの広告取り扱い要項の第十条には「この要項に定めるもののほか必要な事項は町長が別に定める」ともある。しかし第十五項もこの最終条項も、前述したように、それらの事項は、関連法である放送法・有線テレビジョン放送法の総則・法規の制定目的条項の精神、ならびにそれらの上位法にしたがって解釈される、また五色町民の利益(公益性)にかんがみて考慮されるべきものであって、町長が恣意的に解釈し、公営放送を私物化し運用することを認めているものではない。このことは、その他の類似法律にかかわる事件の取扱がしめしているとおりである。
にもかかわらず、今にいたるも、五色町(長)が本件の乗り切りを@町内のいかなることも最終的には町長の「恣意的・独断的」判断によると理解し、Aヒ素などの毒物についても基準値を国の環境基本法の定めるそれの三十倍もにしてしまう新安全値をふくむ条例制定という、おごる権力の常套手段ともいえる政治手法としての条例改正(一九九七年九月)をして「そこに事業主体は土壌安全基準を越える残土をもちいて、事業を施行してはならない」と定め、ヒ素の安全基準値そのものを甘くしてしまったことは、権力とメディアの癒着構造をしめす単純かつ典型事例である。同時にそれは、町民の公共的な共有物である有線テレビジョン放送の私物化行為であるばかりか、それら一連のことは公共の福祉と民生の向上をはかることを町民によって付託されている町長の責任に明白に背反するものだといえよう。
三、放送CM契約は単純な「私法上の契約」ではないこと
本件被告の五色町(長)側が第二回公判(神戸地裁洲本支部、一九九八年二月二十日)に提出した準備書面にある主張のほとんどはこれまでの人間社会の知的遺産と法理を無視したこじつけである。とくに今回のCM契約が「私法上のものであり、その打ち切りは町長の権限の範囲内にあり、憲法上の制約の範囲外にある」という主張にいたっては、憲法に違反する法律そのものがないということをも無視する暴論である。
以下、順をおって説明する。
第一は、有線テレビジョン放送は郵政大臣の施設免許を得て、放送法の規定する内容を放送することをその事業とすることを義務づけされているから、その条件のなかで運営されねばならない淡路五色ケーブルテレビ局がCMをふくめて何をしてもいいことにはならないことである。つまり、放送局の事業には公益性の高い情報を多数に伝達するというきわめて大きな公共性があり、それは当該有線テレビジョン施設の設置目的にもあるし、法律的にもそう要請されている。
第二、今回の事件では、原告である山口薫氏は当該ケーブルテレビ局の加入会員であり、法人としての淡路五色ケーブルテレビ局は関係法律と当該施設のゆるすかぎりにおいて「能う限り」会員の利益を保護する義務があることを考えると、「純私法上の契約」という単純な商売上の利害関係ということにはならないし、被告が簡単にいったん契約した料金を受け取り、さらには放映までしたCMを正当な理由なく途中で打ち切ることもできない。
くわえて、局の窓口担当者がいったん契約金を受け取ったということは、窓口段階ではその日常務からの慣習的判断においてそのCM内容にはなんら問題がないと受け取られたということである。つまり実際の放映直後の打ち切りは町長による独断をあらわしている。かくして、この準備書面における「純私法上の・・・」という理由付けもまた、本件が問題になって以後に被告側(弁護団)がひねりだした「後知恵」にすぎないということである。
第三、よしんば百歩ゆずってこのCM放映契約が「私法上の契約」であったとしても、その「関係私法」が上位法、とりわけ憲法に違反している場合にはその法律である「私法」そのもの、ならびにその規定から派生するあらゆるものが無効になるというのが法律・法解釈上の常識である。それは憲法に違反する法律を定めることができないということとおなじで、本件CM中止事件における「被告町(長)による行為」はすべて憲法と放送法の範囲内でおこなわなければならないのである。つまり、打ち切りという「私法上の契約」の関連行為といえども、違法な「賭博行為の借金」について借り方は返す義務がない、貸し方は返還をせまる権利がないという誰しも認める法解釈とおなじく、今回事件の町(長)の行為には違法性はあっても、いくばくかの正当性もないということである。
四、有線テレビジョンと公共性・公益性、
今回のCM打ち切りが五色町民の利益に反することであることを、有線テレビジョンの公共性・公益性という観点からのべておきたい。
〈有線テレビの設置目的〉
この淡路五色ケーブルテレビ局の設置目的は二つの角度から検討される。第一は、有線テレビジョン放送法、およびその下位諸法・諸規定ののべるところであり、第二は、五色町がその設置の理由として掲げた目的である。
第一については、この法律がその総則の第一条を「目的」とし、「この法律は、有線テレビジョン放送の施設の設置及び業務の運営を適正ならしめることによって、有線テレビジョン放送の受信者の利益を保護するとともに、有線テレビジョン放送の健全な発達を図り、もって公共の福祉の増進に資することを目的とする」としていることの意味である。 この表現法は情報関連の法律だけではなく、日本のその他の諸法規にも特徴的にみられるものである。とりわけ、その後段にある「公共の福祉に資する」という表現は放送法総則の目的条項(第一条)にもあるが、その意味についてこれまで日本では厳密な検討が加えられることはほとんどなかった。
私はこれまでこの「公共の福祉」の意味について「公共性」と「公益性」という観点からの分析をいくらかおこなってきた(『メディア・リテラシー』ダイヤモンド社、一九九七年などを参照)が、それらの検討から明らかになったことは、「公共の・・・」ということの意味は、「物理的・精神的」ならびに「直接的・間接的な関係者の・・・」という意味からはじまる「他との関係属性とその範囲」をあらわす概念だということである。
その意味解釈をこんどの五色町営ケーブルテレビの利用・放映対象、ならびに会員資格とのからみで考えれば、この文脈での「公共の福祉」とは「五色町民およびその関係者の福祉」ということになる。またこの法律の第四条は「許可の基準」として、郵政大臣による施設の設置認可の条件を四つさだめている。うち、前三項は技術的な水準をもとめるものだから、本件訴訟では問題にしなくともよい。だから、本件訴訟に関しては、その第四項の「その他その有線テレビジョン放送施設を設置することがその地域における自然的社会的文化的諸事情に照らし必要であり、かつ、適切なものであること」という文言の分析をすれば十分だということである。それは「五色町にとっていかなる内容の放送をおこなう有線テレビが必要であるか」の@自然的A社会的B文化的必要性の検討をするということである。そしてこの具体的な意味内容は第二の観点からの分析と関連させるとおのずと明らかになってくるであろう。
さらには、この第四条のAは、「郵政大臣は(施設の許可の申請にたいし)許可又は不許可の処分をしようとするときは、関係都道府県の意見をきかなければならない」としており、本件の場合でも、「郵政大臣は兵庫県知事の意見をきいた」はずである。そしてその際、兵庫県知事は津名郡五色町民の意見を五色町長をとおして「きいたはず」であり、その回答としては、オリジナルの許可申請書に記された設置目的がそのまま五色町長からの意見として兵庫県知事にたいして「具申されたはず」である。
このことによって、はじめて第一点と以下の第二点が密接に関連してくることになる。
第二点については、先述のように、五色町発行の文書はその設置目的として、@長寿社会を支える若者定着と人づくり、Aテレビの難視聴解消対策、B産業・保険・医療・福祉総合情報ネットワークシステムの構築、という三つの観点からの「心ゆたかなふるさと五色」の町づくりをうたっている。
これらの文言の内容についてはあえて説明するまでもなく、表現それじたいが明白に語っている。ここからいえることは、五色町がこの情報ネットワークの構築によって、現在の町内の物理的諸環境と町民生活を向上させ、より豊かにすると同時に高齢化社会を迎える日本の状況によりよく応えるための人材を町内に確保するということである。そしてここでいう「こころゆたかなふるさと五色」づくりとは、美しい自然と豊かな人材、そして一人ひとりの町民の意志が反映される町内政治システムの構築とその維持を五色町CATV総合情報ネットワークシステムによって維持・向上させることであると解釈できる。
こうして第一の法律的側面と第二の五色町による、有線テレビ局の設置目的はみごとに合致することになる。ここからも住環境(すくなくとも自然環境と社会生活環境の二つ)の保全は緊急性とその重要度において相当高い位置づけをされる事項であることがわかるから、今回のCMの放映中止はこの点からも不当なものだといえよう。
私の公共性論のもう一つの強調点は、「公」をたんなる「個人のつながり」、あるいは民衆をひとつの「かたまり」とみるのではなく、他との関係属性ととらえ、@個人対個人、A個人対集団、B集団対個人、C集団対集団、という四つのレベルの関係の拡がりとするというものである。
と、考えてくると、本件淡路五色有線テレビジョンにおける「公共性」とは、直接的には淡路町民のかかわることから発生することになり、間接的にはそのことによって日本全体の有線テレビ放送が現在および今後、その事業実施にかかわることで影響を受ける範囲までをふくむものだということになる。その二つの関係性において、これまでの関係部署と分野において達成されてきたさまざまなことが改善の方向に向かうことが当該テレビ局による「公益性」の創出だということになる。
つまり地域の公共性とは直接的には「関係住民が直接・間接にかかわるあらゆるレベルの人間関係・社会的事象のつくりだす属性」ということになり、それが関係上位法をつうじて日本全体にひろがっている。さらには、公益性とは「公共性という関係属性のなかで保持される、もしくは創出されるプラス価値」だということになる。これをより具体的にいえば、阪神淡路大震災の倒壊家屋の処理およびその新築工事にともなう残土・廃棄物が当該地区に持ち込まれることは淡路五色町にかかわる人びとにとっての「公共性」そのもののなかで起こっている事象だということになる。さらには、その行為によって持ち込まれる残土に「黒い土」があり、あげくにその「黒い土」にヒ素が国の基準値の一・七倍も含まれていることが兵庫県の調査によって判明したのであるから、この残土搬入にかかわるすべての行為が淡路町民の公共性に深く関わり、その公益性を侵害しているといってよいことになる。なぜなら、ヒ素が検出されたことだけではなく、残土を捨て、それを運ぶということは、いわゆる「公害」であり、明白に淡路五色町民の「公益性」に反することになるからである。
つまり本件訴訟における「CM中止」は当該CMを申し込み、その放映を中止された山口氏だけではなく、淡路五色有線テレビジョン会員はもちろん、非会員にも利害があること(公共性にかかわること)になり、それら広範な人びとの利益(公益性)を侵害するものである。よって本件の原告適格は、山口氏にはもちろん、当該テレビ局の会員、非会員をとわず、日本に住むあらゆるひとにあるとも考えられるのである。
当然、この結論にいたるまでには、第一、その公共性にかかわる具体的な事象の関係住民における公益性の侵害の事実の認定、第二、その侵害による被害が淡路五色町民の受認すべき範囲であるかどうか、が問われる。そのことについても本件の場合、町側は提訴を受けてから、形式として「広告取扱要綱」のみを改正し、広告放送の可否を問う際には「番組審議会の意見を聞いて放送しないことができる」という一文を加えた。が、五色町営テレビ局側(具体的なかかわり部局としての町企画情報課)が、その解釈については現在でも「町経営のCATVである以上、最終的な可否の判断は町長にゆだねられるべきで、町長の判断で放送を中止したことを否定するものではない」と主張しているのは上述の事由により了解しがたいものであるといえる
五、結論
言論空間を公共性(公共圏)としてとらえることをドイツ・フランクフルト学派のユルゲン・ハーバーマスが一九六二年にはじめておこない(日本語版は『公共性の構造転換』として未来社刊)、それを「教育程度の高いブルジョアたちによる社会に存在するある種の〈「理想的言論空間〉」だと考えたのにたいし、私は放送のようなマスメディアのおこなう情報提供活動の領域を「公的言論領域」と名付け、その基本を人間の職業差や身分差・階級差・教育差など、あるいは単純な読者の興味・嗜好という観点からのみ考えることを否定し、個人を超えた関係性とよりよい社会の建設という指向性をもち、社会的流通価値のある情報(〓公的情報)とそれが行き交う言論空間・一般メディア空間においた主張をしている(前掲、拙著『メディア・リテラシー』ダイヤモンド社、1997年、参照)。
このような「公的言論領域」を設定することによってはじめて、社会的プラス価値をもつ事件報道の基準も具体的になるであろうし、メディアの情報提供活動においても、生命の維持にかかわる社会的諸条件の向上と主体的言論の保障を市民主権社会建設にあたっての大切な人権と考えることができるようになる。そうした社会観・言論観が社会の大勢となれば、今回の五色町営有線テレビジョン放送における、根拠のない、かつ町民の利益に反するような行為や事件が減少し、メディアにおける民衆の利益(市民益)の創造が飛躍的にのびることにつながっていくであろう。
裁判長の賢明なるご判断を信じます。