以下は平成11年6月2日に控訴人が大阪高等裁判所に提出した準備書面です。控訴人代理人からいただいたコピーをOCR作成したものですので、 乱丁があるかもわかりませんので、そのつもりでご参照ください。



準備書面

控訴人  山口 薫
被控訴人  五色町
 

右当事者間の平成十一年(ネ)第三六二号損害賠償等請求控訴事件ついて、控訴人は左記のとおり弁論を準備する。


一九九九年六月二日

右控訴人訴訟代理人
弁護士 松山 秀樹
辰巳 裕規
  


大阪高等裁判所

  第一民事部 御中

           
第一、証人齋藤貢の証人採用の必要性・適格性


 齋藤証人は、五色町の前町長であり、アイデア町長として全国的にも有名な町長である。現在は、兵庫県公文書公開審査等を勤めている。
  齋藤証人と砂尾現町長とは旧来からの公私両面に及ぶ友人であり、政治的な対立など過去にも現在にもない。齋藤前町長は、健康面から町長の座を退いたのであり、砂尾町長と選挙で対立したことはない。
  齋藤証人は、ケーブルテレビ設置を推進した人物であり、五色町がケーブルテレビを設置した趣旨(住民への情報提供・知る権利の充実及び住民からの情報発信、さらには住民の声を町政に反映させる等)を同人に証言してもらい、本件広告放送が、そのケーブルテレビに沿うか否かを証言してもらうことが本件審理において不可欠である。
  また、同人は、町長退職後も五色町で生活し、残土搬入問題をめぐる町民の状況を直に知っている人物であり、本件訴訟の争点が、原判決が描いたように、町民間の意見対立となっている以上、一町民として、かかる対'立状況と呼べるような雰囲気が五色町内には全くなかったことを証言してもらう必要が存する。
  齋藤証人は、本件訴訟において、証人として、もっともふさわしい人物である。本件訴訟は、既に存する他の公営ケーブルテレビ、あるいは、これから設置を検討している地方自治体に大きな影響を与えるものであり、充実した審理を尽くすためにも、是非とも証人として採用していただきたい。
  
第二、五色淡路未来フォーラム開催時の状況。


 本項では、第一回五色淡路未来フォーラムが、出席人数の減少や萎縮した雰囲気が存したものの、現に開催され、例えば推進派による妨害活動などと言った、混乱など全くなく至って平穏に行われたという事後的な状況から、遡って本件広告放送中止決定時に五色町内に「推進派」「反対派」の緊迫した対立状況などなかったことを主張する。


 一、第一回未来フォーラムは、予定通り八月三一日に、五色町立五色町民センターで開催されている。町議会議員四名及び砂尾町長も主席している(争いがない)。同フォーラムでは、出席者は減少し、「反町長派」とみなされることをおそれ、萎縮した雰囲気は存したものの、プログラムに沿って淡々と進行し、砂尾町長自身も発言する機会が設けられている(甲一五号証七頁)。同フォーラムにおいて、住民問で意見対立があり、会場が混乱すると言うような自体が起こったことは全くなく、むしろ静かに淡々と進行していったのである。


 
、ところで、仮に原判決が認めるような、「推進派」「反対派」の対立が存したので有れば、フォーラムの会場において何らかの意見対立・混乱が現場で生じるのがむしろ自然である。まして、かかる現場に町長や町議員が出席し、発言している状況から判断しても、五色町内に残土搬入をめぐる住民間の対立、町政混乱の恐れなど全く存していなかったことが明らかに認められる。
 なお、このフオーラムには、米山地区の組合員数名も参加(乙一九号証)しているが、全く対立・混乱等を引き起こしてはいない。
 フォーラムが町立の施設で開催され、町長自身も参加していることに比すれば、本件広告放送時に果たして放送中止を正当化せしめる状況などなかったことは誰の目にも明らかである。
 
第三、「推進派」の実像


 本項においては、一般の五色町民には建設残土「推進派」などという存在は無く(特に積極的な意見を述べない、「平穏」な町民がほとんどである)、仮に「推進派」なるものが存在するとして、その実像は、一般の五色町民で一はなく、残土搬入の利権に群がるごく一部の業者らにすぎず、他方、汚染された残土搬入に賛成する住民などはいないことから、本件広告放送中止を正当化せしめる「推進派」「反対派」の対立など存しなかったことを主張する。


 
、五色町内において積極.的に建設残土搬入を推進してきたのは、専ら残土搬入業者(町外業者も含む)であり、一般の五色町民が残土搬入を積極的に推進したことはない。
 
 
、この点、原判決は、米山地区等は、「建設残土搬入を要望し、その実現に向けて行動していた(一一頁)」とするが、全くの事実誤認である。五色町民全体としては、米山地区等も含め、一般に建設残土搬入を少なくとも推進する者はいなかった。ただ一時的な利益話が存した時に、ごく一部の地区の一部の住民が、ごく一時的に(利益を受けられる限りで)残土搬入を容認したことがあったものにすぎず、「推進派」などという大げさな「対立軸」が形成されたことはない。
 このことは、米山地区も例外ではない。乙一九号証によれば、「米山地区は五色町の中でも山間地域にあたり、丘陵地と谷地が多く、平地があまりありません。そのため、田や畑は丘の中腹や谷底に作られています」とのことであり、「丘や谷底の田畑は場当たりが悪く、収穫も多く望めません。」ともされている。こうした地域をほ場整備しようとすれば、当然事業コストが割高となるし、ほ場整備を行ったとしても美田にはならない。しかも本来は米山地区のほ場整備総事業費五億円のうち、地元住民がその事業経費の二割を負担しなければならない事業である。以上の諸条件を考慮すれば、米山地区の住民は決して自ら率先してほ場整備を行おうとする状況にはなく、むしろほ場整備には本来は消極的であったと認められるのである。この点で原判決には、町内の実情を全く認識しない明らかなる事実誤認がある。
 もっとも、米山地区においては、ほ場整備事業を行うことが町議会で議決されているが、これは、右に述べた様に、費用対効果の面でほ場整備事業に消極的だった米山地区住民に、町(長)が、無料である建設残土を利用してほ場整備事業を行えばよいと説得した結果、米山地区住民が、無料の建設残土搬入によるほ.場整備事業で有れば、コストがかからないと判断したからである(被控訴人平成一一年四月一四日付準備書面(一)第三項、町長供述調書二六)。米山地区の住民も汚染された建設残土の搬入には勿論反対であったが(乙二号証)、建設残土が無料であることから、汚染されていない建設残土の搬入については、これを容認するようになった。もっとも、残土搬入を望んだ者は、かかるほ場事業の対象となり、無料の建設残土が搬入できることとなった、ごくごく一部の住民にすぎない。ほとんどの町民は、残土搬入を推進したことはない(ほとんどの町民は、残土搬入問題に特に関心を示さないか、関心を持ち始めた者ばかりであり、町内は本件事件前後を通じて、「対立」などとはほど遠い、全く平和な静かな町のままである。判決内容は町内の実際と大きく齟齬している)。かかる一時的な利益を受ける一部の者が一時的に「汚染されていない」残土搬入を容認したことをもって、「推進派」などと絶対に認めることはできない。
 
 
、建設残土搬入を推進し、一部の地区の住民に、建設残土が無料であることをもって搬入を勧めたのは、残土搬入業者(町外業者も含む)であり、仮に残土搬入「推進派」なるものが存するとすれば、かかる業者達のことを指すものである。
 すなわち、本件で問題とされている建設残土は、そもそも阪神問から淡路島に搬入されるものである。しかし、かかる建設残土は、阪神間では、全く有益な利用が出来ないものであったからこそ、むしろ、費用を支払ってでも受け取らせたいものであったからこそ、「無料」での利用が可能となることは容易に推測できる。業者が、輸送コストを負担してまで、「無料」の建設残土を搬入を推進する理由は、そこに輸送コストを上回る何らかの対価が存するからということも容易に推測できる。
 町が主張する「推進派」というものが仮に存するので有れば、「無料」の建設残土を「輸送コスト」をかけてでも搬入することを熱望する「搬入業者」のことであり、五色町民一般とかけ離れた、かかる業者の存在をもって、放送中止を正当化することのできことは絶対にできない。
 なお、五色町内における過去四年間に五色町で行われたほ場整備事業には、五色町の指名入札業者であるダイニチ工業は、全く入札に加わっておらず、受注業者になっていない。しかし、ほ場整備事業のほとんどすべてに受注業者の「下請業者」としてダイニチ工業が入っているとのことである(被控訴人側で容易に調査可能である)。平成九年度から始まった米山地区初年度工事費約一五〇〇万円のうち、約三分の一の五四六万円を下請けとして受注している。ダイニチ工業は、平成六年に有限会社砂屋建材が商号変更した会社であり、かつて砂尾町長が代表役員に就任していたこともある同族会社である(甲一二号証)。砂尾町長は現在も同社の出資者であり、同人夫妻が一〇〇パーセントの持分を保有し、配当を得ている。また、砂尾町長の妻は、現在も常勤の取締役員であり多額の役員報酬を得ている(ほ場整備事業の下請業者としてダイニチ工業が独占している状態は、指名業者が、ダイニチ工業を指定せざるを得ないからこそ生じる事態である。指名業者がダイニチ工業を下請にしないと何らかの不利益があると推測できる。例えば、指名からはずされる等の不利益があるなどである。ちなみに、町の公共事業はそのほとんどが一般の競争入札事業とは異なる指名入札事業であり、しかも五〇〇〇万円以下の規模の事業は議会の承認を得ることなく町長決裁で出来る。事実上町長の自由裁量で指名業者を決めることが可能である)。
 ほ場整備事業推進を望む業者には、ダイニチ工業も含まれている(甲一五号証一〇頁以下参照)。
 
 
、ところで、砂尾町長は、原審法廷において、「今までも賛成派の人から、もし搬入を阻止したら損害賠償の裁判を起こすと言われていました。損害賠償とはほ場整備は一〇万平方メートル単位なので一平方メートル一〇〇〇円としても億単位の金がかかりますが、建設残土は無料です。」と供述している(被告代表者調書二六)。
 被控訴人主張の通り、米山地区の住民は、建設残土が無料であることを前提として、はじめてほ場整備事業を受け入れたようであるが、ほ場整備事業そのものは、「無料」の建設残土を使用することに制限されていた訳ではない。「億単位の費用がかかる」ものを米山地区の住民に「無料」になるからと町長が説明していたとしても、かかる説明・約束に少なくとも地方公共団体としての五色町が損害賠償請求の対象となる訳では絶対にない。米山地区の住民(といっても、ごくごく一部の住民である)が、損害賠償請求を起こす旨を町長に述べていたとしても、町政に全く関係のない事であり、「推進派」「反対派」の対立を基礎付けること間接事実にも、放送中止を正当化させる基礎事実にもならない。
 付言すれば、右供述は、原審法廷において、これまで原被告双方から、全く主張もない、尋問においても特に積極的に問われていないにも関わらず、町長がすすんで供述した事項である。建設残土が「無料」であること、ないし、ほ場整備事業を、「無料」の建設残土を、もちいることを口約束し、米山地区の住民に、「無料」である建設残土を用いることを前提としたほ場整備事業を強く勧めていたのは町長であったと自認するものである。
 砂尾町長は、就任後、条例を緩和し残土搬入を実質的には「推進」してきた(甲一五号証添付資料六参照)。なぜ建設残土を「無料」で搬入することを「推進」するのであろうか、米山地区の住民に、「無料」の建設残土搬入を勧め、ほ場整備事業を勧めるのはなぜか。
 ともかく、「行政の中立性」を唱える町(長)こそ、残土搬入「推進派」と疑われてもやむを得ないのであり、だからこそ本件広告放送も独断で中止するという暴挙に出たのである。
 
 
、以上述べたとおり、五色町民一般には、本件事件当時、搬入「推進派」「反対派」などというものは存在しないのである。地元の五色町民からすれば、簡単に「五色町内に意見対立が存した」などと事実認定すること自体、奇想天外であり、裁判に対する信頼を損なわしめるおそれがある。また、五色町という小さな地方自治体では、第一審の結果を受け、「やはり町(長)に意見を述べ、町(長)を訴えるということなど許されないことだ。」という萎縮した雰囲気が漂うこととなり、第一審判決の、結論は勿論、その事実認定が、町民に及ぼした影響は図り知れないことを御斟酌いただきたい。本件事件当時、五色町内では、被控訴人が主張する「推進派」「反対派」の意見対立など存しない(なお、立証責任は被控訴人に存する)し、少なくとも本件放送中止を正当化せしめるに足りる対立、町政混乱のおそれなどは全く無かったのである。仮に「賛成派」というものが、存したとすれば、「無料」の建設残土を、輸送コストを負担してまで搬入することを望む残土搬入業者と、「無料」の建設残土を利用できることにより経済的利益を受けられることとなり、一時的に残土搬入を望んだ一部の地区の一部の住民と、右住民に建設残土が「無料」であることをネタに、その利用を強く勧めた町(長)のことである。五色町一般住民間には、「賛成派」「反対派」の対立など絶対にない。
 
第四、憲法論


本件訴訟では、町長が住民の広告放送を中止したという構造から、憲法論議が不可欠であるが、原審では、直接適用を否定した点のほか、全く憲法の趣旨を斟酌することはなかった。しかし、本件では避けることのできない憲法判断が複数存する。


 
、憲法の直接適用が存するか。
 本件では、町が当事者であり、「実質的にみて公権力の発動たる行為」と言え、百里基地訴訟最高裁判決を基準としても憲法の直接適用があると解すべきである(同判決には、批判も多い)。被控訴人が原審において引用する林教授の論文にも存するように、本件では、まさに町長が、町長としての立場から、放送局の放送決定に公権力を発動して介入し放送中止をさせたのである。放送局長としての立場から中止を決定したのではなく、「町長」として中止を働きかけたと評価すべきである。
 仮に、直接適用がないとしても、町が当事者である場合には、通常の私人間効力の問題とは同視することはできない(町が当事者である以上、原則的には憲法の適用が存することから議論ははじまる。いわゆる私人間効力の問題は、原則的には憲法の適用のないと解されてきた私人間の法律関係に憲法の趣旨を及ばせないか、あるいは直接適用ができないかとの議論である。そこにおいては、各種の社会的権力(第四の権力と評されるマスコミ・民間放送局も当然該当する)が巨大化した現代社会において、あくまで私的自治の原則を絶対視できないとの考え方が認められてきたからである)。純粋な私人間の問題ですら、憲法の趣旨を及ぼすべきとされているのであるから、ましてや、町が当事者である本件訴訟では、やはり控訴人の「表現の自由」「思想信条の自由」「平等権」、また住民の「知る権利」の侵害の度合を斟酌しなければならないのである(最高裁の百里基地訴訟判決においても、憲法の規定が民法九〇条にいう「公ノ秩序」の内容の一部を形成することを当然の前提としている。
 
 
、表現の自由権の侵害
 表現の自由は、民主政治の根底を担保する重要な人権である。まして地方自治体においては、住民自治の前提として絶対不可欠の人権である。特に、本件広告放送は、集会の案内であり、これまた民主主義の基礎をなす集会の自由を実質化する上でも極めて保護する価値の高い権利であり、自治体の長ともあろう者は、その重要性を今一度認識すべきである。
 また、五色町の住民は、本件広告放送中止により、集会の存在を知る権利を奪われている。情報化社会において、表現の自由は、受け手の自由として把握され、個人がさまざまな事実や意見を知ることによって、はじめて政治に有効に参加する、あるいは自らの人格を発展させることができるという知る権利こそが表現の自由の中核となるものである。本件広告放送のような情報こそ、すすんで住民に提供されなければならず、かかる広告を放映できないようなケーブルテレビには、もはやその存在価値はない。
 なお、ケーブルテレビは、長らく情報の受け手の立場に留められていた個人・住民の側から情報を積極的に発信するという機能を有し、住民のアクセス権を実現する意味からも期待されるべき二一世紀型のメディアの一つと位置づけられる。アクセス権については、「私企業」の形態をとるマスメディアに対する具体的なアクセス権を憲法の規定から直ちに導くことは民間マスメディアの消極的表現の自由を国家機関が侵害するおそれがあることから消極的に解する考え方もあるが(いわゆるサンケイ新聞事件判決参照)、本件では放送局は町営であり、報道の自由の侵害などという問題は住民に対しては生じ得ない。
 以上に述べたように、本件広告放送は憲法上強く保護されるべき言論内容であるし、現に放送が開始されたことで実現していた表現行為であった。
 かかる表現行為を、主催者が控訴人であったことを理由に中止させることに微塵足りとも合理性・正当性はない。
 
 
三、 思想信条の自由・平等権の侵害
 町長は、つまるところ広告主が控訴人であるから放送を中止したのであり、町長も法廷でこれを認めている。しかも、放送中止と同時にホームステイ受け入れをも取り消すという暴挙に出ており、明らかな控訴人への差別的取扱を行っている。町長は、控訴人を「反対派」の一員と見ていたことを中止の理由としているが、一住民である控訴人にかかるレッテルを貼ること自体、許されない。
 本件広告放送中止を決定した町長の判断には、明らかなる裁量の逸脱が存する。控訴人の思想良心の自由・平等権を侵害した恣意的な取扱であることは明白である。

                                 以上