以下は平成11年10月12日に控訴人が大阪高等裁判所に提出した最終準備書面です。控訴人代理人からいただいたコピーをOCR作成したものですので、 乱丁があるかもわかりませんので、そのつもりでご参照ください。


準備書面

控訴人  山口 薫
被控訴人  五色町
 

右当事者間の平成十一年(ネ)第三六二号損害賠償等請求控訴事件ついて、控訴人は左記のとおり弁論を準備する。


一九九九年一〇月一二日

右控訴人訴訟代理人
弁護士 松山 秀樹
辰巳 裕規
  


大阪高等裁判所

  第一民事部 御中

           
第一、知る権利の侵害


、言うまでもなく、表現の自由は、民主国家の基盤をなし、個人の自己実現の前提として極めて重要な人権であり、その侵害は、民主主義の崩壊を決定的に招くことから、その侵害に対しては不断の努力によりこれを排していかなければならない。
 
、本件では、五色町という地方自治体において、建設残土の汚染問題について知識・情報を得る学習集会の案内の広告放送が、一度は、町に受理され放送が現になされたにも関わらず、これを町長が中止したという事案である。
 飲料水を一〇〇パーセント地下水に依存する五色町民にとっては、土壌の汚染は、直ちに町民の健康を害するおそれがあり、土壌の汚染についての知識・情報は、全町民にとって、重要なものと位置づけられる(斎藤陳述書・証言参照)。砂尾現町長が建設残土搬入を推進していく中で、建設残土が汚染されているかどうかについて知識・情報を得ていくことは、やはり、全町民にとって重要なことである。右学習集会は、まさに五色町民が残土の汚染問題を考えるに必要な知識・情報を獲得する絶好の機会であったのであり、右学習集会の開催日時・場所を知る機会を得ることも学習集会に参加するために欠かせない前提として重要である。そして、淡路五色ケーブルテレビには、五色町民のほぼ全世帯が加入しており、町民に対する広告媒体としては、相応しいものであった。
 建設残土汚染問題に対し、多くの知識・情報を得、各自がそれについて自分の意見を持ち、住民相互が意見を活発に交換し、その意思を町政に反映させていくことにより、地方自治体としての意思決定をしていくというプロセスが民主主義・住民自治の原則に則ったものである。そのプロセスの第一歩として、砂尾町長も参加した右学習集会があったのであり、その存在を住民が知るための機会として、本件広告放送がなされたのである。民主主義・住民自治の観点からも、住民の知る権利を実現する上からも、本件広告放送内容が重要なものであったことは明らかである。
 かかる重要な情報の流通を、行政権力が規制したというのが本件事案である。
 
、権力、特に行政権力による表現の自由の侵害を防ぐ役割は、司法機関に課せられているというのは憲法学のイロハである。表現の自由の侵害は、民主制に瑕疵を生ぜしめ(五色町では既に生じているのではないか)、もはや議会や行政による自己回復が図れないという危機的状況を招く。かかる事態を打破し、民主制を回復することが司法機関の使命である。かかる憲法原則から、例えば表現の自由の規制に対しては、経済的自由の規制に対し厳しい基準で審査する二重の基準論が導かれるのである。原審では、本件広告放送契約は、私人間契約であるから憲法の適用はないと判示し、また憲法的価値の斟酌といういわゆる間接適用説すら採用せず(間接適用説は、原則として憲法の適用のない純然たる私人の行為に、憲法の趣旨を及ぼそうとする、憲法拡大の論理である。原審では、原則憲法が適用される町を私人と見た上で、更に間接適用すら採用しないという憲法解釈の放棄がなされている)、司法機関の使命を簡単に放棄している。
 また、表現の自由の侵害にもっとも敏感にならなければならないのは、国民・住民の知る権利の担い手であるマス・メディアであるが、本件では、淡路五色ケーブルテレビというマス・メディア自身が、放送中止問題を由々しき事態であると自覚しなければならない。憲法的価値の高い本件広告放送を放送せず、温泉旅館等の営利広告だけで満足しているケーブルテレビには住民の知る権利の担い手としての存在価値はない。
 
、本件訴訟における損害は、第一次的には、広告主である控訴人が主催する学習集会を住民に広く告知する機会を奪われたことであるが、同時にそれは、住民の知る権利を全面的に奪ったことを意味する。かかる行為を正当化する事情は、本件においては何一つ見当たらない。
 この点、原判決は、賛成派・反対派の対立、町政混乱のおそれを指摘するが、再三述べてきたとおり、五色町内に「賛成派」「反対派」の「対立」など存しないし(もっとも仮にかかる「対立」が存したとしても、正当な意見表明権の範囲内で両者が激しく意見を闘わせることは、むしろ民主的意思形成過程として自治体を活性化するものであり、望ましいものである。表現の自由が確保せんとする政治的言論は、異なる見解を有する者同士の活発な意見交換を常に伴うものである。)、砂尾町政は何ら揺らくものではない(本件訴訟が五色町内で報じられた後も、何らの混乱は生じていない。)。
 むしろ本件の真相は、建設残土搬入を何かしらの理由で積極的に推進してきた被控訴人ないし砂尾町長にとって、住民が、建設残土の汚染問題に無関心であり続けることが望ましく、建設残土の汚染問題について知識・情報を得ようとする動きを嫌ったため、本件広告放送を即座に中止させたという点にある。行政の中立性を確保するといいつつ、行政そのものが推進派の筆頭であったのである。かかる事実は、砂尾現町長の就任以来の残土搬入に関する政策・見解を見れば明らかである。よもや汚染された残土を搬入することは、現砂尾町長と言えど望まないものと願うが、汚染に関する知識・情報を住民が有しなければ、万が一、建設残土が汚染されていたとしても、これを住民が知ることはなく、従来どおり、汚染されていない残土として搬入し続けることができると考えているのではないか。住民は何も知らない方がやりやすい、町政に批判的な動きは出てこないと考えているのではないか。
 結局、被控訴人(現砂尾町長)こそ建設残土搬入推進派の旗頭であり、本件広告放送中止は、学習集会により知識・情報を有するに至った住民が、汚染問題に関心を持ち、万が一、残土に汚染の事実を知った時に、砂尾町長の残土搬入推進路線に疑問の声を唱えることを嫌ったため行われた暴挙であり、まさに行政による表現の自由・知る権利の侵害行為そのものである。裁判所におかれては、かかる実態を直視していただき、自治体行政権による表現の自由の侵害行為から、憲法を通じた保護を控訴人(あるいは五色町民)に与えていただきたい。

第二、斎藤前町長の供述のまとめ


、斎藤前町長の供述の信用性
 斎藤前町長は、五色町に生まれ育ち、現在も同町に居住している。職歴は、町議会議員・助役等を経て昭和五四年七月より四期一六年間、町長とを勤めるなど、まさに五色町政とともに人生を歩んでいる。本件に関する五色町の状況を知る上で、もっとも適格な人物である。自らも黒い土をほ場整備に利用させた経験があり、砂尾現町長との間には、対立関係は今も昔もなく、客観的・中立的立場からなされた同人の供述は信用性が極めて.高い。

、淡路五色ケーブルテレビ設置の趣旨
 五色淡路ケーブルテレビは、「誰でもいつでも気軽に利用できる情報施設」として設置され、「自主放送の二チャンネル分は、住民の皆さんに新しい情報の提供と生活支援、住民の声を町政に反映させるべく公聴の役割を生かすもの、特に無料文字放送チャンネルは住民の皆さんが気軽に利用できる連絡チャンネルと位置づけ、無料」とする等、住民への情報提供は勿論、住民からの情報発信をも目的としている。特に番組放送審議会設置の際には、斎藤町長は、「住民の町に対する要望、ときには町政批判もできるような放送内容にしたい。遠慮のない町政批判もできるような放送内容にしていただきたい。議会中継等もぜひともやっていただきたい。議論の中から町の活力が生み出される。」旨発言している。町政に住民の意見を反映させること、特に批判的意見の放映こそ貴重であること、議論を活発に闘わせることを通じて町が活性化していくことを冒頭にあげたこの発言は、淡路五色ケーブルテレビのあるべき姿を見事にうたいあげ、極めて示唆に富んでいる。この設置の趣旨に添い、現に議会中継もなされ、無料文字放送を住民が利用できるようになっている。
 右設置の趣旨に鑑みれば、本件広告放送中止が、これに反する行為であることは明らかである。砂尾町長や業者が推進する残土搬入に対し、住民が建設残土の汚染問題に知識・情報を身につけ、住民の監視の目が高まるかも知れないことを嫌う砂尾町長にしてみれば、本件広告放送は町長に批判的な動きであると考え、これを中止した。しかし、かかる広告放送こそ住民間の議論を活性化させる前提として流されなればならないのである。町長の意に添う番組しか放映されない町営テレビの存在は、極めて危険である。

、無料文字放送チャンネルの利用状況
 無料文字放送チャンネルでは、現在も「町が主催しない、町が企画していない行事についての案内も流されている」。斎藤氏自身、町長退職後、医師や政治家の講演会を主催し、その案内を無料文字放送チャンネルで放映している(なお岩国代議士は、現民主党議員である。岩国代議士の講演会の案内を町営ケーブルテレビで放映したところで、町が民主党を推奨していることにはならないはずである。)。
 このように、無料文字放送チャンネルは、「住民が気軽に利用できる連絡チャンネル」として設けられていたのであり、本件広告放送についても当初、控訴人は無料文字放送チャンネルで放映してもらうよう掛け合っていたのであるが、町は、町が企画した集会ではないとの理由でこれを拒絶している。しかし、これについて斎藤氏は「本件広告放送は、無料文字放送チャンネルで流すのが適当である。」と判断している(この時点で既に町は誤りを起こしている。)。
 
、町長の決裁権限
 斎藤氏は、町長時代、放送内容を自ら確認し決済をするなどということは一切なく、全て情報センター担当者に委ねていた。砂尾現町長も同旨の証言をしている。実務上、町長が広告放送内容を逐一チェックすることなどないのであり、実質的決裁権は、情報センター担当者が有しているのである。本件広告放送は、一度は情報センターから許可を経て放送が開始されたのであり、町長に中止決定権は、形式的にも実質的にも存しないのである(町長自らがかかる決定をすること自体、恣意的な扱いである。)。

、五色町内における建設残土搬入問題をめぐる住民の状況


1、残土搬入問題については、五色町議会で一般質問として提出されているが、その内容はケーブルテレビにより住民に放映されている。しかし、右中継がなされたことで五色町内には余り反響はなかったとのことである。仮に建設残土問題で五色町内に町政に混乱が起こるような対立が存するのであれば、本件広告放送よりも議会中継の方が、はるかに影響は大きいはずである。しかし何らの混乱は一度も発生していないのである。

2、五色町の一般住民は、自分の意見を述べるということの少ないおとなしい住民が多く、公の論議がなされ対立があったということにはなりにくい土地であるとのことである。原判決が描くような、町政混乱のおそれなどとはほど遠い従前どおりの生活を町民は続けているのである。

3、第一回未来フォーラムに出席した住民によれば、大変勉強になった、みんな真剣に聞き、混乱など全くなかったとのことであり、その後も黒い土問題で対立はない。

4、斎藤氏は、五色町政に精通した人物であるにも関わらず、極楽寺や大浜町での「反対派」の会合や、奥の内部落や米山地区での町長宛の要望がなされたことなどは全く知らなかったとのことであるし、鳥飼地区の署名についても、そうした署名が集められたということを知っている程度に留まっていることに鑑みれば、右会合や陳情等の動きは、町政を揺るがすような大げさなものではない、むしろ住民の多くには、あまり関係のない出来事であったと認められる。積極派・反対派の「対立」、町政の混乱のおそれなどは、町が本件訴訟になった後に後知恵的に築こうとした虚構にすぎない。

、右にみた、斎藤氏の供述から、本件広告放送はケーブルテレビ設置の趣旨から積極的に流すべきものであること(無料文字放送チャンネルがふさわしいこと)、五色町内に町政混乱を招くような対立など存しない、おとなしい町民生活が続いていることが認められる。
 なお斎藤氏は、行政が大変ゆがんだ方向に行く可能性があることを懸念している。広告放送中止については、「大変遺憾に思っています。むしろフォーラムの案内は無料として文字放送で流すべきであったと考えます。町長の感情によって町民の知る権利がゆがめられるとは全くあってはならないことであり、町直営のケーブルテレビであるが故になおさらです。」と述べている(また、ホームステイ中止についても、町の差別行為にあたり、人権問題であると断言している)。本件広告放送中止は、まさに町長の感情によって町民の知る権利がゆがめられた事案であり(なお、第二回未来フォーラム開催の広告放送については広告主の許可なく、無断で内容が改変されたものが流されているー原告陳述書)許されてはならない。
 
第三、憲法の直接適用について

、原判決は、極めて簡単に本件広告放送契約及び中止決定を、町が私人と対等な立場で行った私法行為であり、憲法の適用はないとする(しかも間接適用すら行っていない)。その主たる根拠は、民間ケーブルテレビ局が多数存することにあるようである。

、しかし、淡路五色ケーブルテレビは、住民の福祉を充実するという行政目的で設置されたものであり、営利目的(もっとも言論の自由の担い手としてメディアの公的使命は存するが)で設立されている民間ケーブルテレビとは全く異質の存在である。また、広告放送中止決定は、被控訴人の主張によれば、行政の中立性を守るために意思決定されたとのことであるが、かかる決定は、行政機関としての意思決定そのものであり(民間放送局が、行政の中立性を理由に契約を破棄することなど有り得ない)、本件広告放送中止決定は、町の「処分」行為と解され、憲法九八条一項にいう「国務に関するその他の行為」に該当すると解するのが相当である。あるいは、町長の中止決定は、町長が、町が定めた広告放送取扱要綱第二条一五号に本件広告放送が抵触するとの判断したからであるとされるが、同号は「不適当と町長が認めるもの」と包括的な規定となっており、同号に該当するか否かのの判断は、行政の長が、公権力を行使して、まさに法規範を定立する行為であるから、やはり憲法九八条一項にいう「国務に関するその他の行為」そのものである。

、国と私人が売買契約を締結、あるいは賃貸借契約を締結する場合、例えば、売買代金の消滅時効などを判断するに際しては、民法の規定によるのが妥当と思われるし、借家法の適用はあると解するのが相当である。しかしながら、例えば、市営住宅の賃貸借契約締結に際し、特定の思想を有する者には、契約を締結しないとの判断を市がなした場合には、市の判断は思想良心の自由を侵し、また平等権を侵害するものとして明らかに憲法に反すると判断されるはずである。また例えば、市営住宅に居住する者が、特定の思想を有することが判明したことを理由に市が契約解除した場合には、かかる市の意思決定は憲法違反の問題が必然と生じる。私人と対等の立場で締結される契約であったとしても、当事者の一方が国・地方自治体である場合には、憲法の適用を受ける場面が存するのである。特に契約を締結する、あるいはこれを中止するなど、国・地方自治体が何らかの意思決定をする場面においては、その意思決定には憲法の規律が直接及ぶのである。

、百里基地訴訟最高裁判決において伊藤正己裁判官は補足意見で、「国の私法上の行為も憲法の直接の規律を受けることがありうる。」と指摘し、その例として「当裁判所は地方公共団体が地鎮祭のための神官への報酬などの費用を支出したことの合憲性を審査しているが・・・この支出行為は私法的な行為に基づくものとみられるから、右の趣旨を前提としているものと解することができる。」と述べられている。「国の行為は、たとえそれが私法上の行為であっても、少なくとも一定の行政目的の達成を直接的に目的とするものであるときには・・・私法上の行為であることを理由として憲法上の拘束を免れることができない場合もありうるものと思われる。」とされるのである。本件広告放送中止は、まさに行政目的(歪んではいるが)の達成を直接の目的とするものであり、憲法上の拘束は免れることはできない。

、民間マスメディアと一般市民との関係の規律を考える際にも、マスメディアの報道の自由が、国民の知る権利から導かれること、あるいは情報の送り手と受け手の乖離を経て、巨大化したマスメディアに対し、例えば(広義の)アクセス権が提唱されていることに鑑みれば、いわゆる「ステート・アクションの法理」により、民間マスメディアに対しても憲法的規律が及ぼされるべきである。少なくとも憲法の趣旨が間接適用により強く及ぼされるべきである。然からば、町営ケーブルテレビについて憲法の直接適用があることは自明であろう。
 なお、例えば、私人間であっても、人身の自由や労働権については憲法の直接適用があると解するのが通説であるが、これは憲法的規律を広く及ぼす必要性が極めて高い人権だからであると思われる。民主主義の根幹をなす表現の自由権についても憲法的規律を広く及ぼすべき要請はあると思われる。
 百里基地訴訟で直接適用が問題とされたのは憲法九条であり、確かに私人間の憲法的規律を予定した規定とは言い難い面もあるが、憲法二一条一項については、マスメディアと国民との関係の規律をも予定しているー例えばアクセス権をめぐる議論ーと解する余地はあると考える(労働基本権が使用者と労働者の関係という私人間の法律関係を規律することを予定したのと同様である。)。
 
、なお右の主張は、百里基地訴訟最高裁判決の論理構造を前提として述べたつもりではあるが、同判決の論理構造そのものを本件にあてはめることを直ちに是認するものではない。
 そもそも国・地方公共団体の私法行為を通じた人権制限は、本質的に認められない。百里基地訴訟で問題となったのは、自衛隊が憲法九条に抵触するか、という、いわゆる人権規定ではなく(平和的生存権の議論はあるが)制度的規定に関するものである。そこには、直接的な人権侵害の問題は生じていない。被控訴人が原審で引用した判例も、人権規定が問題となったものではない(むしろ、私法関係と解することにより、私人を保護している)。
 国は私法の価値秩序において保護される純粋な私人ではなく、むしろ信義則や取引の安全等で保護されるべきなのは相手方の私人たる国民の正当な利益であり、その意味で憲法の規定は公序をなすけれども法律行為の効力判断の点では相対化されると把握すべきなのである(公序による当事者保護のアプローチ、古川純「違憲審査の対象の公権力性と私的行為性」ジュリスト一〇三七号四二夏参照)。
 国の行為を私人の行為と解釈し私法を適用するのは、相手方たる私人を保護するための論理であり、国を保護するための論理ではない。この点で、原審には、国の私法行為論について解釈の根本釣誤りが存する(国を勝たせるための論理として用いている。)。およそ国の行為により、国民の人権が侵害されてはならないのであり、私法行為を通じた人権制限であっても(国の人権侵害行為に私法・公法の差はない。)憲法による保護を国民に与えられなければならない。憲法九八条一項にいう「国務に関するその他の行為」に国民との関係における国の私法上の行為を含めてとらえ(特に人権制限行為について)、しかしその国の行為が違憲である場合でも、ただちに法律行為の効力を否定して一方当事者である私人たる国民の正当な利益が害されてはならないので、私人を保護するために、その効力は、公序良俗規定により判断するという把握が妥当であり、国の行為を私人の行為と把握することで、国を憲法的規律から免らしめることは、健全な憲法解釈態度とは言えず、絶対に許されない。
 
第四、最後に

本件広告放送中止の実態は、住民間の推進派・反対派の対立の狭間で町が中立性を保とうとして行ったものではなく、町自体が建設残土搬入を先頭に立って推進していく上で、住民が建設残土の汚染問題に関する知識・情報を得る場を設けようとする動きを封じ込めるために行われたものであり、町(長)の姿勢こそ中立性を著しく欠くものである。
 ところで、平成十一年九月二二日、大阪・兵庫・徳島など四府県警と大阪海上保安庁の合同捜査本部は、大阪市内の産廃業者が淡路や四国の山間部などに不法投棄したとして、廃棄物処理法違反容疑で、同社本社と汚泥を運搬した姫路市内の海運業者など約六〇カ所を捜索するとともに、五色町鳥飼浦の埋め立て処分場など一ニカ所を検証したと新聞報道がなされた。同社は約二年前から汚泥を産廃に当たらない残土と見せかけ、不法投棄していたとも報じられている(甲二一号証の一及び二参照)。五色町を含む淡路島では、阪神間からの産廃の不法投棄の問題が絶えない。特に砂尾現町政になって以降、その行政スタンスからか、五色町は、産廃業者の不法投棄のターゲットにされている。その背景の一つには、地元にも産廃搬入により巨利を得るものが存するからである。その利益はごく一部のものに占められ、大多数の淡路島の住民はそれにより深刻な被害を受けるばかりである。かかる利権の構造を打破する必要があるが、その前提として、住民の知る権利は最大限確保されなければならず、時の権力者の恣意的な情報操作は絶対に許されてはならない。

 以上