以下の内容は、平成10年7月12日(日)に開催された淡路UU21平安の郷づくり第2回ふるさと講演会において、「わがふるさとと菅原道真」と題して講演された北山学先生(兵庫県文化財保護指導員、元都志小学校校長)が、会場で配布された参考資料から抜粋したものです(但し、読みやすくするために句読点追加)。

鮎原河上天満宮の由来についての研究論文
(神官佐伯真琴氏の研究による)

鮎原河上神社天満宮


道真太宰府に左遷にあたり住みなれた紅梅殿をあとに

東風吹かぱにおいよこせよ梅の花あるじなしとて春な忘れそ

と謳われたが、下向の道すがら京都の夫人に送った詩歌として

君がすむ宿の梢をゆくゆくもかくるるまでにかえり見しはや



御左遷の道すがら当所にお立ち寄りの説

昭和5年11月28日官弊中社太宰府神社宮司高辻信雄氏よりの回答による「管家世系禄」玉田永教著によると、

 前略…それより津田へ着きたまふに(津田は今飾磨郡)付近に琴弾き浦月見の丘あり。
「ほのぼのと津田の細江のみおつくし又夜は深き月の入汐」と菅公月を眺めて琴を弾ぜられしとか … 中略 … 
それよりお船に乗りたまいしに、北風強く白浪天に張り、高工(せんとう)水奴あわて騒ぎ、辛うじて淡路の西浦に寄せられたり。ここを街(つち)の浦と云。
直ちに上られ、その夜は蜑(あま)が苦屋に宿したまい、翌日も北風いよいよ強く、お船を出し難ければ、菅公、この辺りに都の見ゆる山は無きかと尋ねたまふ。
里人日く。都の見え申す山御座候、御道案内仕りましょうと一人の憎を語らい、三○町余りも川上へ登りたまふる。一つの山に登りて、彼方に見ゆるが都の山にて候。
菅公日く。あれは播磨と津の国の山なり。只我が志は都にひありと御落涙、後にこの処を街(つち)と書くを改め都志とする。
この山のふもとに佐伯氏の郷土あり。是が宅にて御昼を召し上げられしに鮎の魚を奉る。
菅公日く。これは珍しき鮎なりと賞したまふ。
主日く。此節はこの川に居候へども、追々は川上へ登り後は一つもなく候。
菅公日く。何卒この鮎この処に置きたしと奇なるかな。これよりこの鮎、川上へ登らず。此処切に群がり居る。これよりこの里を鮎原と云。則ち天満宮なり。
彼の御案内せし僧は衣寿にて後ここに御社を建てし時、社僧となる。佐伯氏神主となり子孫連綿たり。
この社は阿州候より造営あり。社前の松は菅公御自手植たまいしと云。専念御造営の時、この松社へ傾きかかり居し故、代る評議せしに一夜の中に松自に立ち上がりと伝う。


写真は鮎原河上神社天満宮境内にある神官佐伯家跡ー真ん中左の建物)


以上の記事により拝察するに淡路へ上陸ありし事実は疑うべくもあらず。現に当社御宝物の絵縁起中にも西浦御上陸の場面があり。もし、世系禄の記事確かとせば、菊水井の伝説は時季に合わず尚後日の考究にまたん。




G菊水井(淡路手引案内柏木忠貫著)

浄土寺にあり。管丞相この浜へ揚らせられ、水を乞いたまふに汲みて参らす。器なく里の等蛸壷に入れて奉るにこの蛸壷に蠣(かき)がら多くつきてきくめ石の如くなる故菊水とのたまい壺を捨てたまいし処よりより清水出ず。それより石を組みて井戸とし、今に菊水井とて寺内にあり。